一人の人として歩まれたイエス
クリスマスから一か月半たち、主イエスの十字架を覚える受難日の二か月前というこの時期、
イエスがこの地上を歩まれたお姿を想い起こします。
神であられる方が私たちと同じような人間となられたというのはとても不思議なことでもあり、
私たち人間の間で共に過ごしてくださったのを懐かしいような思いにさせられることでもあります。
ヘブライ人への手紙2章17節というところに、このように書かれています:
「それで、イエスは、神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥(なだ)めるために、あらゆる点できょうだいたちと同じようにならなければなりませんでした。」
私たちの罪を身代わりに負って十字架につかれるために、私たちと同じようになられた主イエス。
そのことを想い起こすたびに、この方の本当に大きな愛を実感します。
フーガのセオリー通りにつつましく作られたこの作品は、際立った姿もなく一人の人間として歩まれた主イエスのお姿を連想させます。
「セオリー通り」とは言っても、決して特徴のない作品などではなく、腕のいい職人が堅実に作り上げたような印象を受けるのは、パッヘルベルの卓越した技術と音楽性の表れと言って間違いないでしょう。