成し遂げられた
最近、あらためてイエス・キリストの十字架と復活の個所を読みました。
ヨハネによる福音書では、イエスが十字架で「成し遂げられた」と言われてから息を引き取られた、と書かれています。
今さらながら「成し遂げられた」という言葉であったのだ、と気づきました。
それは、救いの完成を宣言する言葉であり――それがいかに十字架というみじめな光景に似つかわしくなかったとしても――勝利の宣言の言葉でした。
特にヨハネでは、「永遠の命が与えられる」ということを、救いの重点として描いています。
つまり、「成し遂げられた」とは、永遠の命への道が完成した、ということです。
「死」という言葉を聞くことの多い昨今、安易な慰めの言葉は気休めにしかならない――しかしイエス・キリストが、ご自分の命が今まさに終わろうとしている時にこの言葉を語られたことは、誰も反論できないような命の確信を与えると思います。
「イエスは、この酢を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
(ヨハネによる福音書19章30節;日本聖書協会『聖書協会共同訳聖書』)
動画は、パッヘルベルの「目覚めよ、わが心よ」による変奏曲の、第二変奏です。
第一変奏をアップしてから、一か月以上あいてしまいました (^^ゞ
キリストは私たちの平和
今日は、受難日。
イエス・キリストの十字架を覚える日です。
パッヘルベルの「罪なき神の小羊」 ”O Lamm Gottes unschuldig” をアップいたします。
もととなった賛美歌(コラール)のはじめの旋律をフーガの形式で展開する前半部分と、コラールの旋律を一行ずつていねいに奏でていく後半部分からなる、充実した作品です。
確かな技法に支えられた堅実な作風、シンプルな和声など、パッヘルベルの持ち味が存分に味わえる名作だと思います。
もととなった賛美歌の歌詞の最終行、「イエスよ、あなたの平安を与えてください」という言葉に、平和を求める祈りを込めたいと思います。
キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・
(エフェソの信徒への手紙2章14節;日本聖書協会『聖書協会共同訳聖書』)
棕櫚の主日
先日の日曜日は「棕櫚(しゅろ)の主日」でした。
イエス・キリストが十字架の直前にエルサレムに来られたことを記念する日で、人々がなつめやしの枝を切って来て道に敷いてイエスをお迎えしました。
この「なつめやし」が古い訳では「しゅろ」となっていたので「棕櫚の主日」と呼ばれています。
この時、喜んでイエスを迎えた群衆が、金曜日には「十字架につけろ」と叫ぶのです。
自分たちが勝手に思い描いていた「メシア」像、イエスがそれとは違う方だと分かった時の、掌を返したようなイエスに対する仕打ち――このような罪を、私たちは持っているのだということでしょう。
そのような私たちが赦され、神との関係を回復することができたことへの感謝を覚えつつ、この一週間の「受難週」を過ごしていきたいと思います。
「群衆は、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
『ダビデの子にホサナ。
主の名によって来られる方に
祝福があるように。』」
(マタイによる福音書21章9節;日本聖書協会『聖書協会共同訳聖書』)
*「ホサナ」=「どうか、救ってください」
動画は、ツィポリの「ホ短調のヴェルソ第4番」です。
テーマの最初の部分が、同音反復を除くと「ソ・ファ#・シ・ミ」という十字架を思わせる音型であるところが、受難週に合うと思って選びました。
移り変わっていく祈り
「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父(神)に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
(マタイによる福音書6章6節;日本聖書協会『聖書協会共同訳聖書』)
祈りというのは、キリスト信仰の中でとても大切な営みです。
神様に対して、自分が思うことを申し上げること~願い事はもちろん、何を祈ってもよいのです~、そして心の耳を澄まして神様からの答えを聞くこと、そのような神様との深い交わりの時が祈りです。
そのような中で、祈りの最初の内容から、ずいぶんと離れて行ってしまうことがあります。
でもそれも、そのように導かれたということなのでしょう。
祈りは、移り変わりながら深まっていくものなのかもしれません。
動画でご紹介したのは、パッヘルベルの『ファンタジア ト短調』。
まさに祈りそのもののような深みのある響きで作られた曲ですが、興味深いのは調性。
ト短調から始まって転調を繰り返し、一番遠い調では変ホ短調まで移っていきます。
そういうところも、祈りが移り変わっていくさまを思わせるような気がします。
イエス・キリストに似た者に
レント(四旬節)の歩みも後半になりました。
「十字架を覚えて過ごす」ということを意識すると、かえって普段はいかに十字架や主イエスのことを想わずに過ごしているか、ということに気付かされます。
十字架につくほどに私たちを愛されたイエスという方、この方にこそ本当の愛があるはずなのに、この方を想わずに過ごしてしまうということは、本当の愛から遠ざかっているということ。
それゆえに愛のない行いをしてしまう、という私たちの現実があります。
しかしながら、そのような私たちがイエス・キリストに似た者とされていくのだ、という約束が聖書には書かれています。
私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。
(コリントの信徒への手紙第二 3章18節;日本聖書協会『聖書協会共同訳聖書』)
主イエスのように愛の人になれた自分の姿を目標としながら、意識してこの方のお姿を想いつつ歩むレント後半としたいと願います。
動画は、ジュゼッペ・ゲラルデスキの「第2・3旋法のヴェルセット」。
明るい作品をたくさん作ったゲラルデスキですが、こんな真摯な作品も書いているのです。
レントにふさわしい作品、ということで選んでみました。
彼らも私たちの内に
イエス・キリストが十字架につく前夜に語られた言葉が、聖書にいくつか書かれています。
その中に次のようなものがあります:
「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。」(ヨハネによる福音書17章21節)
神の独り子イエス・キリストは、父なる神に向って「すべての人を一つに、私たちの内に」と願われ、十字架につかれたのです。
現実のこの世界は、人々が神から離れ、愛を見失って生きている状態である、と言えます。
このような世界では争いが絶えず、現実に今も戦闘行為が行われています。
「人々が分断されている」、それがこの世界の現状~昔も今も~なのです。
こういう世界に来られたキリストは、十字架を通して神の愛を示し、神の愛の中に人々を一つにしようとされるのです。
信仰さえあれば、すべての問題は解決する、という甘いことではないかもしれません。
しかし、二千年前の十字架がなかったとしたら、私たちは今よりもさらに暗い闇の中を歩んで行かなければならないように思えるのです。
動画は、フランソワ・クープランの「修道院のミサ」から、キリエ第3番。
「キリストよ、あわれみたまえ」と歌われるべき部分をオルガンで弾くための作品です。